筆者の購入したDVDや本、鑑賞した映画、テレビ番組、コンサート等のインプレッションを書いています。
Top > 映画/ドラマ > 邦画

●blue(2002)

cover ジーダス

監督:安藤尋
出演:市川実日子、小西真奈美他

画像をクリックすると、amazon.co.jpでDVDを購入する事が出来ます。

【不思議な「間」、映像表現の限界】

魚喃キリコのマンガ「Blue」を原作として映画化した作品である。
普段の私ならば、こんな映画は絶対に見ないのであるが、何で見たのかというと小西真奈美が出演しているからという不純な動機に過ぎない。

コニタンはこの頃が最高に良かったなあ。ほぼ同じ時期に何かのCMにも出ていたと思うが、お人形さんのような綺麗な顔立ちに愕然となったものである。最近有名になってきて露出度が増えてくると、お人形さんが普通のお姉さんになってしまって、妖しい魅力が無くなってしまった。テレビドラマなんぞには出ないで映画と舞台だけで活躍し、たまにCMに台詞なしで出るくらいが丁度いいのになあ。出来れば緒川たまきみたいなポジションになって欲しいものだが。

小西真奈美見たさという不純な動機で見たのだから、この映画が私の好きなタイプの映画かどうかは全然分からなかった。内容から推測するとかなり不安があったのだが、案の定駄目だった。だが、映画の内容が駄目だったのではない。私としては珍しくこの手の映画の中では違和感を感じさせない内容だった。だが、映画そのものが静的で冗長的すぎる。何かを狙っているのだろうが、妙な間があって、これが冗長的なイメージを強くした。
ストーリとか映像に関係なく、この冗長的な「間」がどうにも気になってしまい、この映画の印象を悪くしてしまったのである。

そういうわけで、どうしてこんなに冗長的な「間」が生まれたのかトテモ気になっていたのだが、先日原作本を読んでみたところ、その原因がはっきりした。
元々、このマンガ自体に「間」があるのだ。
かなり省略した背景と白を基調としたコマ割。台詞も少ない。どうやら監督はそのイメージを映像で表現したかったのではないだろうか。だが、それは方法として間違っているのではないだろうか。この空間は心の「間」であり、白さは少女の透明感とか清潔感とか(内容は清潔感を感じさせるようなものではないが)、そういうものを表現しているような気がするからだ。
だから私は、それをそのまま時間の「間」として表現してしまった映画の「間」に齟齬を感じたのだ。

マンガの場合の「間」は、読み手が自分で作る事が出来る。
たとえば白紙のページが1ページあったとして、それを書き手が読者に対してどれくらいの時間開かせておくか、という事は意図できない。白紙を読み飛ばしてしまうせっかちな人も居るだろうし、1分以上眺める人も居るだろう。
しかし、読み飛ばした人にも1分以上眺めた人にも、その白紙ページの意図しているところは、同じように感じ取ることが可能である。これが紙媒体表現の特徴だ。

ところが映像では、1分の間は1分である。白紙を読み飛ばしてしまった人には冗長的に感じてしまうだろうし、白紙を2分眺める人には1分では短すぎる間となってしまう。そこが映像の難しさであり、面白さであろう。
だから、監督の間の作り方が悪いのではなく「私の感覚に合わない」だけなのだ。
なるほど、原作を読んで初めてこの「間」が理解出来たし、それによってこの映画を逆に評価することが出来るようになったのだから、やはり原作のある作品は善しにつけ悪しきにつけ、読んでおく必要があるという事かもしれない。

原作を読んで納得できた部分もあった一方で、それ以上に原作を読んでしまったことで、映画に対して落胆してしまった部分もある。
この原作は大変素晴らしいもので、この手のマンガには疎い私でも、この作品の良さは充分に理解できた。中年の男に思春期の少女の気持ちなんか分かる筈が無いなどとおっしゃる方も居ると思うが、それは間違いというものだ。確かにオトコにはオンナの気持ちは分からない。だから、この映画が原作の意図しているところを100%理解した上で作られているとは到底思えない。
しかし、小説やマンガ、映画や音楽も含めて、作り手の意図したとおりに受け手が解釈するなんて事はありえないのである。
とんでもない勘違いや、間違いがあるはずだ。作者が全く意図していない頓珍漢な深読みをする事だってあるだろう。
だが、それでいいのである。受け手がどう解釈しようと、それは受け手の自由なのだから。

従って、この作品のように元々原作があり、それを映像化した作品というのは、原作の意図するものを伝える作品ではなくて、あくまで映像化した監督のイメージを伝えるものになっているのである。
そういう意味で言えば、この作品は原作とは全く違うものであり、全く別物として評価すべきなのだろう。

原作は、とても男性には描けない世界であり、これをこの感性のまま映像化するのは男性監督には不可能だと思う。そこが、この作品の二番目のウィークポイントだ。監督は何とかしてこの世界を映像化しようと気負いすぎた。その気負いが余計な「間」となってしまったし、原作に比べて妙に中途半端な内容と台詞になってしまった。力が入りすぎなのである。所詮、原作を原作どおりに映像化するのは不可能なのだから、もっと軽く作るべきであった。
私は、この原作の空間を「間」と捉えるのではなく「軽さ」と捉えたのである。
たとえば、映画全体の色は青を基調とした画面づくりになっている。それは文字通り「blue」のイメージなんだろうが、これはやりすぎだ。むしろ原作のイメージを尊重するなら白基調とすべきであったと思う。そのあたりの思い込みの激しさが、この映画を監督の意図するものに見させようという心理に繋がってしまい、自由な解釈を阻害しているように思えてしまった。

もちろん、監督の解釈を映像表現しているのだから、そういう演出の仕方で悪いというモノではないのであるが、原作を読んでしまうと、その原作からの広がり方が私には馴染めなくて、そういう意味では原作とは全く別物と解釈する以外に方法がない。
こういった、原作と映像作品との齟齬は、殆んどの映画に見られるものなのだが、原作の完成度が高すぎるために、それを幾ら映像化しても原作以上にはなり得ない。それならば全く新しい解釈で原作を自分のものとして作ってしまえば良かっただろうが、監督は原作を引きずってしまった。それがこの映画の敗因であると言えるかもしれない。
だが、断っておくが出来が悪いというわけではない。これはこれで面白いのであるが、原作を読まない間は「間」が気になってしまい、原作を読んでしまうと全体的に物足りなさを感じざるを得ないという事なのである。これでは全然誉めてないね。そういう事ではないのだが、私の煩悶を共感したければ、是非一度ご覧頂く事をお勧めしておこう。原作本も必読である。

主演の市川実日子も悪くないが、やはりこの映画は小西真奈美に尽きる。
原作を読んでさらに驚いた事には、イメージが小西真奈美にピッタリなのだ。これは素晴らしいキャスティングであった。メイキングによると、監督は市川実日子のほうに思い入れがあるようだが、前述のとおり空周りした印象が強い。
前段にも書いたが、小西真奈美は元々演技力のある女優さんなので、下らないテレビなどへの出演はそこそこにしておいて、もうちょっと舞台や真面目で地味な映画に取り組んで欲しいと思う。その意味においては、非常に良い映画であった。小西ファンにはお勧めの作品である。