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●硫黄島からの手紙

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2006年:ワーナー・ホームビデオ
監督:クリント・イーストウッド
出演:渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、中村獅童他

【これは日本映画以上に日本映画である】

この映画には「泣きどころ」がない。
必要以上に場面を盛り上げるような音楽もない。
そこが、この映画の評価を一番高めた部分でもあった。

クリント・イーストウッドが「父親たちの星条旗」に続き、硫黄島の戦いを日本側の視点から描いた戦争映画である。
驚くべきは、監督・製作・脚本の全てが米国のスタッフで占められている事で、脚本のアイリス・ヤマシタが日系人なのを除いて日本人キャストは出演者しかいない。
それなのに、日本人の二流監督が描くお涙頂戴の戦争青春映画など蹴散らすほど見事に当時の日本と日本人を描ききっているのはどういうわけだ。

良くあるハリウッド映画のように日本に対する誤解、曲解、中国や韓国との混同、ファッションや台詞の無秩序さは殆んどない。
これは素晴らしいことだ。
特に出演者たちの性格分析と配役は見事に尽きる。
ただ、ミリオタとして見てしまうと、気になる部分が多々あるのだが、それはこの映画には直接関係のない部分だから目を瞑ろう。重箱の隅はつつかないほうが良い事もあるのだ。

米国に駐在し、ワールドワイドな思想を持つ栗林中将(渡辺謙)及びオリンピックで馬術競技の金メダルを取ったバロン西(伊原剛志)と、それ以外の日本人将校の考え方の相違(特に伊藤大尉(中村獅童)、林陸軍少将(ケン・ケンセイ)との相違は顕著)をしっかりと描ききっているのが素晴らしい点である。

だが、そこまでアメリカナイズされつつも決して投降はしない。最後には天皇陛下万歳を唱え突撃していく。しかし玉砕(自決)は許さない。全ては日本のため、少しでも硫黄島決戦を長引かせることで本土を守るという使命を持って勝ち目のない戦いに挑んだ栗林の決意を見事に画ききっているのに舌を巻いた。

しかしながら、映画としての完成度は決して高くはない。ブルーブラックを基調とした映像も目新しいものではないし、カメラワークやセットなどにも多少の不満を感じた。
特に硫黄島島民の住居が、まるで江戸時代の長屋のようなセットだったのには苦笑した。資料が少ないから止むを得ないといえば止むを得ないのだが、南方の島なのにあの集落はありえない。何かの回想シーンかと思ってしまった。
何よりも声が聞き取りにくいのが最大の欠点である。この映画は家でDVDによる鑑賞だったが、いつもの何倍にもボリュームを上げないと声が聞き取れなかった。

ストーリーは西郷一等兵(二宮和也)を中心にして語られる。
パン屋を営み、戦争を嫌い、生きて妻とまだ見ぬ娘の元へ帰ろうとする、この「非国民」的思想を持つ男の感情の揺れ動きが注目のポイントだ。
彼は次第に栗林に惹かれていく。
全く論理的でないエキセントリックな上司には愛想を尽かし、幾度となく危機を救ってくれた栗林に対して、内面的な忠誠を誓うようになっていく。
それをあからさまに表現していないところが、この映画の素晴らしい点でもある。

擂鉢山が制圧され、残った兵士たちは手榴弾を使って次々と自決していく。だが、栗林中将の「自決せず本隊に合流せよ」という通信を聞いた西郷は、自決せずに本隊へ合流する道を選ぶ。
このとき、本隊に戻ろうとする西郷を見咎め、銃を向ける清水に対して「自決することがお国のためになるのか!」と恫喝する西郷の姿は圧倒的であった。

最後のシーンで、自決した栗林の銃を米兵が持っているのを見た瞬間、スコップを振り回して暴れまわった西郷の姿に、彼が栗林に対して思っていたことの全てが凝縮されているようだ。
西郷は結局殺されることなく、担架に乗せられ負傷した米兵と並んで海岸に横たえられる。
生きて妻と子供の元に帰る事が出来るのだ。その意味で彼は満足であるはずなのに、その表情は固く暗い。

二宮和也という俳優はジャニーズ系のアイドルグループ「嵐」のメンバーだそうだが、そんなものとっとと辞めて俳優一本で行くべきだと言いたくなるほど上手いので驚いた。
惜しいのは如何にも現代っ子風の台詞廻しなのであるが、これは仕方のないところだろうか。それよりも時折見せる眼光の鋭さ、表情の変化が素晴らしかったので、冒頭のシーンなどで感じた現代風のイメージは段々となくなっていった。
妻役の裕木奈江とは13歳も年齢差があるのだが、今回の映画ではあまりそれは感じなかった。(裕木が童顔のせいもあるかもしれないが、二宮も結構童顔である)

憲兵隊出身の清水(加瀬亮)のエピソードも印象深い。
国旗を掲揚しなかった非国民扱いの家で、騒ぐ犬を黙らせろという憲兵の上司。
清水は犬を殺さず、空砲を撃って誤魔化すが、すぐに露見してしまい、上司はその場で犬を撃ち殺す。
そうして、清水は憲兵隊を首になり硫黄島に流れてきたのであった。
この話と対を成すのが、清水の最期のエピソードである。
脱走した清水は米軍に投降するのだが、捕虜として捉えられている時に見張りの米兵に銃殺されてしまうのだった。
犬を撃った日本の憲兵と、捕虜を撃ち殺した米兵。この二人の非道な兵隊を清水という兵隊を通して対照的に描いているのが印象深かった。

好人物に画かれている栗林、西に対して、中村獅童演ずる伊藤大尉はどうしようもない日本の士官の代表のような役どころであった。
やたらとエキセントリックになり、状況を冷静に判断できない。
必死の思いで戻ってきた西郷たちを、擂鉢山を死守しなかった反逆者として斬殺しようとする始末。しかもそれを栗林に注意され、遂には栗林に反逆して一人で特攻してしまう。
だが、死体に混じって爆弾を抱いて相手の戦車が来るのを待つという何だか分からない方法だったので、結局死ぬことが出来ず米兵に捕まってしまうのだ。
得てして、こういうダメな人間が生き残ったりするのである。世の中不合理だよな。
中村獅童は私生活を含めて大嫌いな俳優の一人なので、こういう嫌な役が良く似合っていた。

話を栗林に戻そう。
栗林は、塹壕の中で子供に絵手紙を書く。その手紙を書きながら、何度か米国駐留時代を回想するのだが、ここで注目すべきは、米国人の友人の夫人から、「戦争で戦うのは国のためか自分のためか」と聞かれて「同じことです」と言い切った姿である。
日本ではよくも悪くも「天皇陛下万歳」に対する必要以上の嫌悪感を嫌らしく表現したり、「お国のため」を「恋人のため」などと置き換えて妙に美化するような偏向思想(右も左も)の映画やテレビ、文学が圧倒的に多い。
それを「同じ事」とバッサリ切って落とした栗林の姿には敬意すら表する。

その栗林は、最後に出撃する直前、西郷に手紙を集めて地中に埋める事を命ずる。
そのことで西郷を生かす事にしたわけだが、このシーンはもう少し深く画いて欲しかった部分でもあった。映画では何故手紙を地中に埋めるのか、その理由が不鮮明だったからである。
そして最後に突撃する兵士を前にして栗林は言う。
「日本がこの戦に破れたりといえども、諸君の勲闘に涙し、黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう。靖んじて国に殉ずるべし。世は常に諸氏の先頭にあり。」
「靖んじて国に殉ずる」この言葉の意味を理解できる日本人が今、どれだけ居るだろうか。
「靖」の字ですらまともに変換できない有様である。

だが、この映画を見て私が思うのは、そこまでやらねばならないのか、という事である。
海岸線を埋め尽くす圧倒的な物量の米国軍を見て、誰が勝てると思うだろうか。
最後の一兵までが身を賭して戦う事が、本当に国や家族を守ることになるのだろうか。
それならば、無駄な殺生はせず、ここは投降して機会を待つ、という判断があっても良かったのではないかとも思ってしまう。

しかし、そのような甘い考え方にもこの映画には厳しい現実を見せ付ける。
先ほども清水のエピソードとして軽く触れたが、投降した二名の日本兵を監視するように言いつけられた米兵は、上官たちが居なくなってから、「面倒なので」捕虜を始末してしまうのだ。
軍全体の投降ならばともかく、個人的な脱走兵の末路は哀れである、という事なのか。
だが、これが戦争の現実である。

日本では諸外国に対して非常に甘く物事を考えがちな傾向にある。
その最たるものが戦争反対、武装放棄という考え方だ。
確かに私も戦争には反対だ。だが、敵はそう思っていない。
自分達がマスターベーション的に平和を守ろうなどと言ったところで、武力のない国は相手国の格好の餌食でしかない。
この話を始めると長くなってしまうので辞めておくことにしよう。

この映画の素晴らしい部分は、善悪を付けていないところにある。
多くの戦争映画は、一方が善で他方が悪だ。しかもそれは主人公側に善を置く場合が圧倒的に多い。
「国の為に特攻で死んでいった美しい日本の青年」の話なんぞ見たくもないし、「アジアを侵略して中国人を虐殺した極悪非道の日本」の話など、それ以上に見たくもない。
このように戦争という、善悪のつけようがないものに対して無理やり善悪を決めてしまうから、話に矛盾が起こるのだ。
その部分を充分に理解しているというだけでも、この映画は特筆すべきものと言って良いだろう。

これは「父親たちの星条旗」も是非見なければなるまい。

誉めてばかりもいられないので、ひとつだけ苦言を。
あれほど「玉砕はならん!」と言い切った栗林なのに、最後に副官に介錯を頼むというのは少々頂けない。結果的にはピストルで自決するが、ここは史実に忠実に、夜襲戦の中で米軍に最後の打撃を与えている中での戦死とすべきではなかっただろうか。
史実の中で栗林中将は、辞世の句として、
「仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ」
と詠んでいる。

七回生まれ変わってもまた戦うぞと決意した男が、足の負傷程度で自決するとは思えない。

現実的に、栗林の遺体は確認されていないので(突撃前に階級章を始めとする装身具を全て外していたため)、映画のように自決後西郷が埋めたという話でも破綻はないが、自決では栗林の前言を生かす事が出来ないと思う。

最後に、大変個人的な話になるが、私は以前仕事で硫黄島を訪れたことがある。
現在でも民間人の立ち入りは特別な事情がない限り禁止されている。
この島では多くの将兵が亡くなった。未だ埋葬されない兵士たちも多いであろう。
立ち入りが禁止されているために、現在でも戦争の傷跡が生々しく残ってる場所であった。
この映画を見てから、ここへ訪れたいという人が後を立たないというが、これがキッカケで開放されるような事があってはならない。
硫黄島を観光化してはならない。
この島は永遠に幽閉されるべきである。