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●江戸川乱歩の一寸法師

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1955年:新東宝
監督:内川清一郎
出演:宇津井健、二本柳寛、安西郷子、丹波哲郎、和久井勉他

【恐怖!!大根役者】

江戸川乱歩作「一寸法師」を原作にほぼ忠実に映画化した作品である。
同じ時期の横溝正史ものが大幅に改変されていたのを考えると、ここまで忠実に映画化した点には共感が持てる。

それというのも、和久井勉という矮人の役者が居たからであろう。
メイクによって恐ろしい顔になった和久井の一寸法師の存在感なくして、この映画は語れまい。全編を通して江戸川乱歩の情緒たっぷりの映像は昭和30年という時代背景と相まって、非常にムードのある情景を醸しだしている。

事件は山野家の一人娘、三千子(安西郷子)が失踪し、ファッションショーで無残にも切り取られた片腕が発見される。これより前、人間の片腕を拾って逃げた矮人を目撃した小林(宇津井健)は、彼が犯人ではないかと思い、彼が逃げ込んだ寺へ潜入するが住職に追い払われてしまう。

事件の解明を依頼された旗(二本柳寛)は、矮人と寺の住職の関係を謎解き、ついに一寸法師を追い詰める。だが、本当の犯人は一寸法師ではなかった。

一寸法師が逃げ回るレンガの倉庫、おばけ煙突、暗いトンネル。もう、これらのシーンを見ただけでこの映画は元を取ったも同然である。セットではない、実物の迫力がそこにはある。ただ当時のロケ地の風景そのままなのにね。

だが実は、このロケ地そのままの風景というものが、現実の凄さを見せ付けてくれるのだ。
CGではありえない迫力がチープな映画から湧き出てくる。特にレンガ倉庫を中心とした一寸法師の捕り物のシーンは、一寸法師の曲芸的な逃げ回り方と重なる背景の実物の迫力が物凄いのだ。

この映画で唯一怖いと思わせるのは一寸法師が大人に化けた姿であろう。義足を履いて背を高く見せているのだが、袈裟を羽織って常人に化け、ここぞという所で袈裟を脱ぐと中には矮人が!!
妙に肩幅が広い後姿も不気味なのであるが、大人の着物を纏い座っているように見えて、実は立ち姿である矮人の姿の畸形さが実にグロテスクで、ここだけはさすが新東宝という作りになっている。あと、マネキン屋にぶら下がっている沢山のマネキンの手足も不気味なのだが、意図的なのかそうでないのか、この映画の中ではそこをクローズアップする場面はなかった。
そのように不気味な一寸法師が山野夫人に横恋慕するのだ。夫人に言い寄り思いを果たそうとするその姿は、哀れというよりも気味が悪いばかりである。
誤解のないように言い添えておくが、私は矮人症の人に対する偏見はない。だが、この映画は意図的にそのような偏見を煽るかのように作られているのだ。それならば、その意図に従って一寸法師を差別的に薄気味悪く感じるのが正しい映画鑑賞の仕方であると思う。
だからこそ、さすがにこれは現代では映像化できない話になってしまうのだ。

彼は子供(浮浪児)たちには優しく、饅頭を与えたりしている側面もある。そのような優しい姿を意図的に織り込むからこそ、山野夫人を執拗に追い回す破廉恥で凶悪な姿とのギャップが見るものに余計な偏見と薄気味悪さを感じさせるのだ。この映画の中では、一寸法師に対してはそのような感想を持つのが正しい。妙な正義感を出して、この映画は矮人症の人を蔑視しているから良くないなどという偽善的な見方は、決してしてはならない。
なぜならば、そのようにして一寸法師を気味悪く思いこむことで、ラストシーンが生きてくるからである。

最後に、一寸法師は死んでしまうのだが、その時彼の恐ろしい顔面はメイクだったことが分かる。入れ歯と鬘でわざと恐ろしい形相にしていたのだ。その反面、素顔の一寸法師は実に優しい素顔をしていた。
一寸法師はこの事件の犯人ではない。ただ、狂言廻しのように使われただけに過ぎないのだ。真の悪人は犯人であり、一寸法師ではなかったのである。
最後にそれが判明し、素顔を晒して死んでいく。その姿は哀れであり、意外にも涙を誘うのであった。
死の直前の一寸法師の素顔は優しく、悲しい一人の男の顔である。今まで忌み嫌って偏見的な眼差しで見ているからこそ、このギャップに驚き、不幸な死に涙する事が出来るのである。そういう意図が最後にあるからこその、恐ろしいメーキャップなのであった。

このように、一寸法師の出来がかなり良いのにも関わらず、残念ながらこの映画は駄作であった。
ラストシーンで、雪の中を小林(宇津井健)と山野夫人(三浦光子)が寄り添って歩いていくバックに被さって、何だか低級なお涙頂戴の女性コーラスが流れてしまうのであるが、これが最低に酷い出来。
折角の江戸川乱歩の世界が台無しなのである。

だが、この映画を本当に台無しにしているのは各々の主演俳優たちなのだ。
揃いも揃ってダイコン役者ばかり。八百屋の安売りじゃないよっ!!

まずは主役の宇津井健。この人は年を取ってもダイコンであったが、若い頃からダイコンであった。台詞棒読み!!
この映画が今では絶対に映像化不可能であるのは、この映画が不具者に対する差別と蔑視をベースにして形作られていることだ。確かに前述のとおり、その意図するところは単なる差別ではないのであるが、それにしても、幾らなんでも主人公に「これは不具者の呪いだ!」などと言わせてはならんだろう。しかもそれが棒読みなんだから本当に台無しなのである。

続いての棒読みは探偵役の二本柳寛。確かに推理小説の映画化は多くの場合説明調になってしまうのは止むを得ないところであるが、それにしても棒読みが過ぎる。
原作では明智小五郎が出てくるのであるが、何故かこの映画では二本柳扮する旗という探偵になっている。まあ確かに明智らしさは微塵もないので、この役名変更は止むを得ないと思うけれど、助手役として後に明智小五郎が代名詞となる天地茂が出ているのだ。彼を明智にすれば、、、と思ったりしてしまうが、残念ながら端役時代の天地は所詮端役なのであった。

この旗センセイ、探偵の癖に事務所には試験管なんかが並んでいて、さながら研究所のような佇まいである。それが棒読みでブツブツ台詞を喋るから実に聞き取りにくい。
しかも、大団円で探偵が謎解きをする場面ではなんとっ!カメラ目線に切り替えて客席に向かって話を始めちゃうんだから何だかなあ。
ある意味では、このカメラ目線を見るためだけに、この映画は見る価値があるかもしれませんぞ。

はい、お次は山野夫人役の三浦光子。化粧から始まって如何にも1950年代の女優さんであります。可もなく不可もなく。むしろ三千子と松井の一人二役を演じた安西郷子の方が個性的で良い役者さんでありました。
役のせいもあるかもしれないが、犯人役の安西郷子は高慢ちきなお嬢様役と薄幸な小間使い役を見事に演じている。決して上手いとは言えなかったが、こうもダイコン揃いだと物凄く上手い役者さんのように見えてしまう。

もう一人、印象的なのは若き日の丹波哲郎が出演していること。
彼のシーンは電車の中で大写しになるのであるが、その姿はまさに丹波義隆。いやー、義隆って若いときのオヤジさんにソックリなんですなあ。

そんなわけで、新東宝エログロ路線を期待する向きには不満で、江戸川乱歩の妖しい世界を期待する向きには、雰囲気はまあまあだけど台詞が棒読みなので台無しという、B級映画なのであった。
だが、それがいい。

ホラーに分類するのもおこがましいので、これは日本映画の範疇にしておく。