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●ヒトラー ~最期の12日間~


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2004年:ドイツ・オーストリア・イタリア共同制作
監督:オリバー・ヒルシュビーゲル
脚本:ベルント・アイヒンガー
出演:ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・マリア・ララ他


【ヒトラーの最期を描いたドキュメンタリータッチの労作】

アドルフ・ヒトラーの秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲの著作を元に、ベルリン陥落前後のヒトラーと、その周囲の人々の生き様を表現した作品である。2時間半に及ぶ大作であり、途中で一回休憩が入る。この上映スタイルは私にとっては「七人の侍」以来である(記憶している範囲で)。

ドイツ人によるヒトラー映画というのはこれが初めての事だそうである。だが、悪の独裁者という側面だけでなく人間的な部分も描いてしまったことで、ユダヤ系団体などから猛烈な抗議を受けたらしい。しかし、如何に極悪人と云えども、多少なりとも人間らしさはあるはずである。そのあたりの表現手法を間違えると、幾らでも情報操作できることになり、この種のドキュメンタリータッチの映画の難しさを改めて感じてしまうところだ。
ヒトラー役のブルーノ・ガンツ、ヒムラー役のウルリッヒ・ネーテンなど、非常に良く似た役者を多数配役しているので、この映画は本当のドキュメンタリーのように思えてしまう。
特にブルーノ・ガンツは猫背な小男でありながら、時として非常に大きく見えるヒトラーを見事に演じ切っている。
大筋において史実と異なる表現は無いように思えるし、余計な思想的判断を加えずに、淡々とヒトラーの最期を表現していった姿勢に共感を覚えた。

邦題は「最期の12日間」となっているが、内容的にはヒトラーの死後の周囲の人々の言動も描かれており、この邦題はあまり良いとは言えない。原題は(Der Untergang、ドイツ語で「滅亡、失脚」の意)であるが、この映画は「ヒトラーとその周囲の人々の最期の12日間」とでもしたほうが良かったのではないかとも思う。

既に戦争は終局の段階に入っており、ソビエト軍はベルリン市外数キロの所まで迫っている。ここに来て、ヒトラーは敗北を口にするようになってしまう。かと思えば、翌日には躁状態となり口角泡を飛ばして叱咤する。ヒトラーの精神状態の不安定さを物語っている。
ユンゲに対するヒトラーの顔はいつも優しく、憂いに溢れていた。それを、ヒトラーの人間性として好意的に解釈すべきかどうかは疑問ではあるが、独裁者にもそういった一面がなければ、彼を信奉し、彼に殉ずる人たちも現れては来なかったであろう。その是非はともかく、ヒトラーはあらゆる意味において人を挽き付ける能力に長けていたという事だと思う。

ヒトラーの冷徹さを表現する台詞が随所にちりばめられる。
「第三帝国存続のためには市民など無用である。」
「私を信じた者達に対する当然の報いだ」
そんなヒトラーに対して忠誠を誓う人たちは哀れである。
死を賭して赤軍と戦うヒトラー・ユーゲントの子供たち。
「総統、これからも私たちを導き続けてください」と泣き崩れる看護婦。
死を決意したヒトラーにすがって考えなおせと懇願するゲッペルス夫人。
だが、そんな人々の思いなどヒトラーは全く考えてはいないのだ。唯一、秘書ユンゲに対して接する時だけ、優しい顔が現れる。
だからこそユンゲはヒトラーについて誤解してしまうのだ。

ヒトラーとその周囲の人々との思いの対比は、徐々に明確になっていく。
それを演出するのがタバコを吸うシーンだ。
映画前半では、作戦室の前でタバコを吸おうとした将校に対して「禁煙です」と咎めるシーンが出てくる(ヒトラーのタバコ嫌いは有名)。ところが、映画が進むにつれ、エヴァ・ブラウン達が屋外でこっそりとタバコを吸うシーンが出てくる。それが段々と室内になっていき、最後にはヒトラーの部屋の隣でも堂々とタバコを吸いだすのだ。
それは、ヒトラーの権威の失墜を間接的に表現していると言えるだろう。

エヴァ・ブラウンは、もう少し能天気な女性というイメージがあったのだが、この映画ではかなり理知的に描かれている。義理の弟の行く末を案じ、妹に遺書を残すその姿は印象的であった。だが、そこで語られる内容は、洋服代の支払いを心配するようなたわいもないものである。そのあたりが、彼女の複雑な精神状態を表現していた。

圧巻だったのはゲッペルス一家の最期であろう。ヒトラーに心酔したこの夫妻は、戦争に負けてしまえばどの道極刑は免れないことを知っている。そして、罪なき子供たちが戦争犯罪者の子供として生きていくことは出来ないと感じている。独裁者が居なくなり、ナチズムが崩壊してしまえば、ゲッペルスたちもまた生きる術を無くしてしまうのである。
ヒトラーが自殺を決意して自室に閉じこもった後で、再度考えを改めさせようと直訴するゲッペルス夫人の姿も痛々しいが、それを足蹴にするように突き放したヒトラーの姿もまた痛々しかった。
ヒトラーが自殺した後、ゲッペルス夫人は自らの手で6人の子供たちを殺していく。睡眠薬を飲ませ、熟睡した子供たちの歯の間に青酸カリを含ませ、自らの手で子供たちのアゴを押してカプセルを割り、毒殺していくのだ。
このシーンは静かに進行していくが、あまりにも壮絶である。
しかも殺害していくのはゲッペルスではなく夫人なのである。わが子の将来を憂い、生きて虜囚の辱めを受ける事を拒絶し、自らの手で子供たちを葬っていく彼女の胸のうちはどうであったのか。
日本人である我々には想像できない事だが、ナチズムの権化であったヒトラー及びゲッペルスは、仮に生き延びたとしても戦争に負けた以上、死刑は免れなかったであろう。その子供たちには何の罪は無いと分かっていても、彼らが生き延びたとして、幸せな人生を送れた可能性は非常に低いと云わねばならない。だからといって、両親の無理心中を正当化することは決して出来ないが、ヒトラーの死以上に考えさせられるシーンであった。
ゲッペルス夫妻は、その後自殺する。夫人は夫と相対したまま、眉間を夫の銃で撃ちぬかれるのだ。

ヒトラーが死してもなお、戦争は終わらない。
民兵はほとんど戦争の役には立たない。そんな中で、ヒトラー・ユーゲントと称し、パンツァー・ファウスト(携帯式対戦車用グレネードランチャー)を抱えて戦車を爆破しようとする少年兵の姿が印象的である。
彼の父は戦争で左腕を失っている。だから、息子が戦争に参加することには否定的だが、そんな父親を息子は卑怯者と詰って家を飛び出してしまう。ヒトラーのために、果敢に戦闘に参加する少年であったが、人の死を目の当たりにするにつれ、戦争の恐ろしさを次第に感じ始めていく。
そして、戦争終結が宣言され、その放送が市内に流れていく中で我が家に帰ってみると、母は父に銃殺され、父は首を吊っていた。

ベルリンでは最後までヒトラーが抵抗したために、激しい市街戦が展開され、それによって多くの市民が亡くなっている。日本でも、もし徹底抗戦となり米軍の本土上陸を許していたら、どのような惨事が繰り広げられていただろうか。
戦争というのはいつも多くの犠牲を払って成立する。従って、戦争に対する甘い感傷は不要である。だが、既にヒトラーが敗戦を覚悟しているにも関わらず、情報が伝わらない中で無駄な戦闘が続く不条理がある。
共産主義者と名指しされた市民は同胞に殺され、電柱に吊るされる。その不愉快なシーンは映像化されていたが、ソ連兵による略奪や強姦などの悲惨を極めた事実については、ソ連の女兵士がヒトラーの隠れ地下壕を荒らし、エヴァ・ブラウンらの所有していた衣装を略奪するシーン程度しか映像化されなかった。実際にはソ連兵によるドイツ女性に対する暴行は、全ベルリン女性の6%に及んだという。その中には、ドイツに迫害されてきたユダヤ人女性なども含まれるのだ。
そういったソ連兵による許しがたい暴行については、ほとんどと言っていいほど映像化されてはいない。無論、それには様々な理由があると思うが、この映画は、あくまでもヒトラーとその周辺の人物の物語に終始しているという事だと、好意的な解釈をしておこう。

この映画の中には、色々なドイツ将校が登場する。
自分の信じていたものの崩壊を認められず、最後の一兵まで戦うのだという狂信的な将校たちがいる。
或いは敗戦の報を聞き、万事休すと自害する将校たちもいる。
防空壕の中で迫り来るソ連兵たちの重圧に耐えかね、酒を浴びる将校たち。
遊郭で乱痴気騒ぎを演じ、発見されて即刻銃殺されてしまう将校。だが、銃殺直前に彼は「ハイル・ヒットラー!」と唱えるのだった。
一方で、あくまでも人道的立場を貫き、冷静で理性的な行動に勤める親衛隊のシェンク医師が印象的だ。実際、彼がこれほど人道的な人物であったかどうかには疑問が残るが、献身的に兵士の治療に当たるハーゼ医師と供に、好意的な人物として描いているのは悪くはない。

中でも酷かったのが、酒に溺れる将校たちである。無策無能で悲嘆に暮れるだけならまだしも、酒に溺れるというのはあまりにも情けない。
しかも、そのような態度を取る将校たちがヒトラーの側近なのだ。これでは負けるのも無理はないだろう。
覚悟を決めて死んでいく者を褒め称え、美化するつもりは毛頭ないが、地上では国を守るために必死の戦いを繰り広げている兵隊が居るのに、地下で酒に溺れるというのはあまりにも情けなさ過ぎる。

冒頭とラストで、トラウドゥル・ユンゲ本人のコメントが入る。
そこには、ヒトラーの傍らで秘書をしながらも、事実を何も知らなかった一人の女性の正直なコメントがあった。最後には「後に私と同じ歳のゾフィー・ショル(非暴力の反ナチス運動「白バラ抵抗運動」のメンバーの一人で、ゲシュタポに逮捕され処刑される)のことを知り、若さは言い訳にならないとわかりました」という言葉で締めている。
この映画は、ドイツ人が自らの教訓と反省を込めて作った映画として、充分な価値を持つ映画であると言えよう。