筆者の購入したDVDや本、鑑賞した映画、テレビ番組、コンサート等のインプレッションを書いています。
Top > 映画/ドラマ > 洋画

●太陽


B000MEXANI

画像をクリックすると、AmazonでDVDが買えます。

2005年:ロシア

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

出演:イッセー尾形、佐野史郎、桃井かおり

【これはドキュメンタリーではない】

ロシア人監督による、太平洋戦争終結前後の昭和天皇を描いた映画である。
同時期に「ヒトラー ~最期の12日間~」を見たので、奇しくも第二次世界大戦において敗戦国となった二つの国のリーダーの生き様の違いを見る事となった。
だが、「ヒトラー」が出来るだけ史実に忠実なドキュメンタリー映画を目指したのに対して、こちらの映画は論議の余地が無い、単なる虚構に過ぎない。

戦争末期という時代背景にありながら、戦争を想起させる部分は天皇が見る悪夢に出てくる大空襲のシーンのみ。しかも攻撃してくるのは飛行機ではなく魚である。
それ以外のシーンはほとんど、昭和天皇と、その取り巻きの絡みである。「ヒトラー ~最期の12日間~」との最大の違いは、そこに戦争を感じない点であろう。
戦時下という雰囲気は殆んど感じられない。天皇の所作が優雅であるだけに、余計そのような印象を強くするのかもしれない。

天皇が皇太子に敗戦の思いを語る手紙を書いた後、いきなり戦後になりGHQから向かえに来るシーンは夢なのかと思ってしまった。終戦の決断、玉音放送などの部分は全く割愛されてしまっているのだ。これでは余計、戦争の雰囲気が感じられないではないか。監督は何を意図して、最も重要であるべき終戦の決断と、それを臣民に伝える玉音放送のシーンをカットしてしまったのだろう?
違和感は随所に現れる。戦争の原因を昭和13年の移民法によって米国が日本人を排斥した事と決め付ける。そんな事はありえないし、そんな単純な話ではない。

ラストシーン、皇后と再会し、人間宣言を決意して肩の荷を降ろした天皇が、侍従長に対して「人間宣言を録音した技師は元気かね?」と尋ねると、侍従長は、
「彼は自害しました」と答える。
「当然、止めたんだろうね?」と聴くが、侍従長は、
「いいえ」と簡素に答える。
その発言にショックを受ける天皇。
天皇のショックを重大なものと受け取った皇后は、緊張した面持ちで天皇を息子たちに引き合わせるために手をとり、引っ張っていく。

このシーンは噴飯ものである。何故なら、全て捏造だからである。
人間宣言は文書として出されたものであり、録音されてはいない。だから、録音した技師など存在しないし、自害もしていないのだ。
終戦宣言の玉音放送にしても、録音した技師は自決などしていない。
では何故録音技師は自害したなどと言う虚構を作ったのであろうか。それは、天皇が人間に帰す事に失望したからなのだろうか。天皇は神であり、人間であってはならないと思っていたからなのだろうか。
それは茶番である。天皇は神と崇め奉られているが、国民の誰もが彼は人間であることを知っていた。だから、天皇が人間宣言をしたところで、国民には全く動揺は無かったのである。これは私の父をはじめとして、当時の多くの人々から得た証言に基づいた事実である。日本人というものは、天皇が人間であることを承知の上で、神という偶像を作り上げていただけの話なのである。
こういった感覚は、外国人には決して分かるまい。日本人は、それまで天皇は神だと信じ込んでいたのだと思ったのだろう。だからこそ、この監督は、終戦宣言よりも人間宣言こそが最も重要だと思ってしまったのだ。

それこそが、大きな間違いなのである。
日本人にとって、一番重要な事は戦争の終結宣言であり、それこそが初めて国家臣民が耳にした天皇の肉声、すなわち玉音放送なのだ。
御神影でのみ、その姿を見ていた日本国民が、喋る陛下の声を聞いたのである。その時点で、既に陛下は人間と等しい存在になっているのだ。
だからこそ、大日本帝国の存続こそが自らの進む道と信じていた人たちは、天皇が玉音放送において敗戦を知らしめてもなお、戦いを辞めようとはしなかった。
神が臣民に、戦争を辞めよと云うのであれば、やめるのが信者としての正しい姿勢である。だが、天皇は既に神ではない。だからこそ、聴く耳を持たず戦争を続けても問題は無いのだ。既に彼らにとって戦争とは、天皇のために行うものではなく、自分の存在、アイデンテティの確保のために行われていたに過ぎないのだから。それは、ヒトラーの死をもってしてもなお、戦おうとしたドイツ軍将校の想いに等しい。
敗戦を機に自決した将校も少なくはない。だが、多くの臣民は、そこにショックを受けはしたが、安堵の思いも少なからずあったに違いない。

一方で、天皇の人間宣言は、終戦後4ヶ月以上経ってから新聞紙上で発表された文章に過ぎない。戦後の復興に力を入れるべく、奮闘している国民に、それがどれほどの意味を持っていただろう。人間宣言など、多くの日本国民にとっては既にどうでも良い話だったのである。だが、それと、天皇への想いというのは必ずしも一致しないのだ。
人間だから神ではない=天皇を崇拝しない。という短絡的な繋がりにはならないのである。
この日本的感覚は、キリスト教を主体として神と人間との関係を考える外国人には到底理解しえない話であろう。

要するに、この映画はロシア人監督による太平洋戦争と昭和天皇に対する独断的なイメージの集結に過ぎないのだ。あくまでもイメージであり、ドキュメンタリーでも何でもない。そこが、「ヒトラー ~最期の12日間~」との決定的な差であり、私がこの映画を肯定出来ない原因でもある。

日本人は、この映画を見るべきではない。少なくとも、ある程度太平洋戦争の歴史と、その前後の事実についての知識を有した人が見ないと、多くの誤解を生じてしまう。
その誤解は、反戦的な考えを持つ上でも、非常に危険な誤解である。

主演のイッセー尾形についても触れておこう。
顔はちっとも似ていない。だが、その所作や口の動きなどが、我々昭和世代にはお馴染みの「天皇陛下」の姿を彷彿とさせる。悪く言えば、天皇のモノマネをやっているだけなのだ。
だから違和感がある。あの口の動きは老人特有のものなのではないだろうか。若かりし昭和天皇が、果たしてあのような口の動きをしていたのだろうか。そんな瑣末な事に猛烈な疑問を抱いてしまう。
熱演であり、俳優としてのイッセー尾形の才能は認めている。だが、この映画に関してはどうであっただろうか。彼自身、この映画について一切コメントを控えている事からみても、その複雑な心理が感じ取れる。

皇后の桃井かおりは、どう見ても桃井さんです。本当にありがとうごさいました。(紫綬褒章受賞おめでとうございます!)
ところが、圧倒的な桃井の存在感が、逆説的にイッセー尾形の天皇をギャグ化してしまったのだ。この映画は、「昭和天皇のドキュメンタリー」などではなく、桃井と尾形による「さる国の王と王妃の物語」という二人芝居であることに、日本人である我々は気づかされるのである。ロシア人の考えるエンペラーは決して天皇ではありえないのだ。
彼女のおかげで、私はこの虚構の矛盾に気づき、安堵したのだった。
彼女のキャスティングは尾形が押したのだという話だが、そこまで意図しての配役だったと考えると、グッジョブ!イッセー尾形!!と叫びたくなるのである。

アレクサンドル・ソクーロフ監督には「ヒトラー」「レーニン」を描いた作品もあるようだが、このような虚構を見せられるだけになるのなら、特に鑑賞するに値しないものだとしか思えない。
歴史映画を撮るのであれば、正確な事実把握を行い、正確な事実描写を行う中で、監督が自らの主張を織り込んでいくべきである。少なくとも事実に反するでっち上げを作っては、その作品には何の価値もない、と言い切っておこう。