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●殯の森(もがりのもり)


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2007年:NHKエンタープライズ

監督:河瀬直美

出演:尾野真千子、ますだかなこ、斎藤陽一郎他


【圧倒的に説明不足】

第60回カンヌ国際映画祭で、17年ぶりにグランプリを受賞した日本映画である。
いかにも外国ウケしそうな題材とカメラワークで見事に審査員特別賞を受賞した作品であるが、ワタシ的には全く評価に値しない映画であった。

それは、映画の中から伝わってくるものが何も感じられないという部分において顕著である。主人公にも感情移入できないし、淡々と進行していく中で徹底的に説明が省かれているので、何が何だかまるっきり分からないからである。
映画というものは、大なり小なり主人公に感情移入してこそ、感動を味わい評価できるわけであって、それは好意だけでなく悪意や嫌悪であったとしても、その映画を見る事で何か感じ取れる部分があるからこそ、映画を見る事の意味や目的があるのだ。

難解であることと、説明不足であるという事は、一見似たようなものに見える。だが、説明不足というのは監督の力量の足りなさを象徴しているに過ぎない。
難解な映画には、圧倒的な情報がある。しかし、それを紐解いていく事が困難であり、人によって解釈が異なるため、それが難解とされるのである。一方で、説明不足の映画は、単に情報量が不足しているので解釈も糞もないのだ。つまり、情報量の足りない映画は、映画としては失敗作としか言えない。
最低限の情報量で、あとは見る者が空想で補っていくという表現方法も無いわけではないだろう。だが、それをやる上では最低限、非常に分かりやすいプロットが明確化されていなければならない。それすら省略してしまったのでは、監督のマスターベーションにしかならないのではないだろうか。

この映画を見ていて、とにかく失望したのはそういった説明不足があまりにも顕著であったからだ。事前に大量の情報を得ていなければ、この映画を理解することは到底不可能である。そんなものを娯楽映画として認めるか、と問われれば、私はNOと言わざるを得ない。

同じ第60回カンヌ国際映画祭に出品された松本人志の「大日本人」でさえ、基本プロットに従ってきちんと内容を説明しているのである。それは、映画が映画であるための最低条件ではないだろうか。「大日本人」については別にコメントを書いているので、そちらをご覧頂くとして、かの映画がカンヌでは全く評価されず、本作品がグランプリに輝く奇妙さを拭い去る事が出来ない。
映画好きには、このような基本を度外視した作品がウケるというのなら、ある意味映画を冒涜した「大日本人」もそれなりに評価されてしかるべきだと思ってしまう。

さて、この映画を理解していただくために、超おせっかいながら、私の分かった範囲で余計な解説を加えていくことにする。それによって、この映画はそこそこ「見られる」作品に転化していくかもしれない。だが、そんな解説が無ければ分からない映画など、私に言わせれば評価の俎上にも上らない作品だ、と言い切っておこう。

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この映画を一言で言うと、次のような粗筋を書く事が可能だ。

『未だに土葬の風習が残る地域に、認知症の老人ホームがある。
不幸な水難事故で子供を失い、離婚した真千子は、その老人ホームに勤めることになるが、そこで「しげき」という軽度の認知症の老人に出会う。
彼は僧侶から、三十三回忌が終わると死者は仏様になりこの世から去るという説話を聴き、三十三年前に死んだ妻「真子」の最後の弔いを行うために真子の墓に行こうとする。
それに車で帯同した真千子は、途中で車を脱輪させてしまう。
そこで車から降りた「しげき」は歩いて山に登る。真千子もそれに従うが、道に迷い遭難してしまう。
一晩が明け、ようやく真子の墓にたどり着いた「しげき」は、真子の好きだったオルゴールと真子が死んでから彼が付けていた日記を捧げる事で、最後の「もがり」を行う。
そして真千子も、無くなった子供の「もがり」を行う事で癒されていくのであった。』

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冒頭、葬儀のシーンで始まるこの映画では、その冒頭のシーンからして説明不足なのだ。鐘を叩き、神妙に行列が進むシーンから、これが葬式の行列であることが分かる人は少なくないと思われる。だが、その葬儀の準備をしているシーンを見て、これが「土葬」の準備であるという事に気づく人はまず居ない。
紙を切って花を作り、輪切りの大根を竹ざおに突き刺して土台を作った上に飾るというシーンが写されるのだが、これは「紙花」といい、土葬の風習が残っている地域で作られるものなのである。
したがって、この地域ではまだ土葬の風習が残っている事を示唆しているのだが、そんなもの誰がわかると言うのだ!!しかし、この地方が土葬である、という事が分かれば、最後に「真子の墓」を見つけた時点で、その粗末な墓の「なり」にもある程度の理解が出来るという事になる。それを万人に求めるのは無理というものだ。

僧侶が語る「三十三回忌」の説話も重要だ。「真子」が死んで三十三年が経過し、「真子」は仏様になってこの世から姿を消すことになる、という僧侶の説話を聞き、「しげき」は「真子」が仏になる前に、もう一度墓前に訪れ、「真子」が死んでから今までを記した日記を墓前に捧げることで「もがり」を行う事を決意するのである。
また、僧侶は「生きていることの意味」についても問う。何故人は生きていることを実感するのか。それは人と人とのつながりによって生まれるのである。
自分が認識しているからこそ、他人が存在し、生きている実感を感じ取れるのだ。
ここは、この映画の中では非常に重要なポイントなのであり、少なくともその説明はきちんとすべきであった。
墓参に行く前に、「真子が居なくなる前に、もう一度会いたいんや」とでも一言セリフを付け加えておけば済む話である。それすらしていないというのは、監督の手抜きではないだろうか?
見る者に対して、最低限の説明を加えずして、映画を作ることなかれ。

「真千子」は「しげき」と山中に入り込み、「しげき」が小さな渓流を渡ろうとしたときに不自然なほど激情して、それを阻止しようとする。それは、彼女が自分の息子を水難事故で亡くしたらしいからである。それに対する説明は、ほんのワンシーンだけ。「真千子」の元夫らしき人物が真千子に花束を叩き付け、「何で手を離したんだ!」と激高するシーンしかない。そこから、彼女が何か失敗して子供を死に追いやったという事は想像できる。
だが、それが水難事故であるかどうかは分からない。
「しげき」が渓流を渡る時、何故か鉄砲水が出て来るカットがあるのだが、それが真千子の見た幻影であるという事に誰が気が付くだろうか。実は私も気が付かなかった。
この作品はDVDで見たので、分からない部分があるといちいち止め、少し戻して見直して考え直すという行為を行わざるを得なかったのであるが、そんな事をしないと分からない映画は映画ではない。
そこに、真千子の子供が溺れるシーンがあり、手を離してしまった映像が付け加われば、それが真千子の見たフラッシュバックであることに気が付くのである。そういう事を行う事が、映画なのであり、それこそが映画が映画であるための必要条件ではないだろうか。

二人は遭難してしまい、山中で一夜を過ごす。雨に濡れた体が冷えてしまい、「しげき」は震えだすのだが、それを暖めるために「真千子」は上半身裸になって体を「しげき」に擦りつける。あまりにもステレオタイプなシーンで失笑するしかなかったのであるが、そんなサービスカットはこの映画には不要である。
いくらでも語れば良いではないか。
何故、真千子が渓流を渡ることを必死で止めようとしたのか。
何故、真千子はこの介護の仕事を始めようと思ったのか。
何故、しげきは今、真子の墓参に行こうと思ったのか。
認知症だからこそ、ストレートに気持ちを表現する場合があっていい。夜だからこそ、真千子は本音を語っていい。その相手が認知症のしげきだからこそ、本音が言える可能性もある。
そうしてお互いが不自然な状況を語ることで、その不自然な行動の意味を見るものに伝え、感情を共有していくのである。それが映画というものではないのか。
そういった一切の感情を排除するのであれば、いっそのこと一切のセリフすらない映画でも作ったほうがマシである。

最後に真子の墓を見つけるシーンで、あまりにもみすぼらしく、山中に佇む墓に違和感を感じた人も少なくないだろう。この土地に土葬の風習があるからこその、粗末な墓なのであるが、それにしても墓地ではなく、ただの森の中にぽつんと佇む墓というのはおかしい。
もう少し墓らしくしておくべきだし、或いは本当の墓ではなくて、何か象徴となるモノであっても良かったのではないだろうか。
生前に真子と訪れた森の中の巨木とかでもいいだろう。そこに、思い出のシーンを付け加えることで、そこが思い出の場所であることが認識できるからだ。

また、ラストシーンで真千子がかざしたオルゴールにカメラが寄り、再び真千子の顔に戻ると、泣いていたはずの真千子が笑っている。そこで、真千子の魂は癒され、亡くなった子供に対する「もがり」を果たすのであるが、そのシーンすら、あまりにも軽くスルーされてしまっていたのが気になった。そこをきちんと表現しないと、この映画には何の意味も無くなってしまうからである。

私は映画のご都合主義については否定しない。だが、ご都合主義を貫くなら、それなりの言い訳もきちんと映画の中に用意しておかねばならない。それが映画を作るものの義務だと思うからである。

この映画で多いに不満だった点をもうひとつ。とにかく声が聞き取れない。ぼそぼそ喋っていて、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
それを補填するのが英語字幕だった。中学生でも分かる程度の平易な字幕なので、英語字幕つきでこの映画を見ると、少し映画の内容が理解できるように思われる。
なるほど、国内で評判が悪く、カンヌでグランプリを取るわけだ。
この映画は字幕が無ければ話にならない。

悪態を付き捲ったが、ひとつだけ評価を与えておこう。
固定カメラで撮った村のシーンは非常に良い。その景色の中を動く人々の姿を引きで撮った絵にはそれなりの説得力があった。ストーリーにはあまり関係ないけど。