No.36 AKIHARU KOYAMA



ホエールズトランプ90年
「陰の名コーチは出戻り」

小山 昭治(昭晴・昭吉)

捕手 右投右打

通算成績:打率.115 1本塁打(ロッテ時代) 6安打 (実働5年)
経歴:日大高−大洋(79-87年)−ロッテ(88-89年)−大洋(90-92年) 78年ドラフト3位
背番号:36(79-87年)−63(90-92年)


日航機モスクワ墜落事故で犠牲となった神奈川県教育長主事、小山昭三氏の遺児。
早大進学を断念し、「父に縁の深い横浜大洋でレギュラーを獲る」という意気込みで、ドラフト3位で入団。
当時のアダ名は「ドラえもん」。
遠投120mという強肩を期待されたが、当時捕手王国であった大洋では出番も少なく、なかなか一軍には上がれなかった。
3年目に「昭晴」に改名するが、その後も芽が出ず、8年間控え捕手で働いた。
85年に漸く一軍出場、86年には初ヒットも記録したが、88年に堀井幹夫と、ロッテ石川賢との2対1トレードで放出される。
しかし、放出先のロッテには、元大洋で移籍後捕手に転向したかつての同僚、斉藤巧が居たのは皮肉であった。
結局2年後、出戻りという形で大洋に戻るが、新進気鋭の谷繁の教育係とも言うべき存在で、やはり出番は無く92年に引退。

引退後も大洋(横浜)に残り、93年〜95年は二軍育成コーチ補佐で優勝メンバーの下積みを作り、96〜97年は大矢政権のもと、一軍バッテリーコーチを務める。その結果が98年の優勝に結びついたと言っても過言ではなかろう。
98年〜2000年、二軍バッテリーコーチを経て退団。
会社員生活の傍ら、2001年には相模原ホワイトイーグルス中学部の監督に就任。
2002年には神奈川県大会優勝に導いた。陰の名将だったのである。

2005年11月14日死去。享年45歳であった。
御冥福をお祈り致します。

2005.11.23

CARDLIST
横浜大洋ホエールズ時代
ホエールズトランプ
'90 #ダイヤ7
ロッテオリオンズ時代
All Rights Reserved (C) JUMBOW 2005

カードで見る大洋選手名鑑