一塁手 右投右打
通算成績:打率.276 331本塁打 2095安打(実働20年)
4打席連続ホームラン(76年)、名球会
経歴:飯能高−大洋(62年-80年)−巨人(81年) 81年巨人にトレード(vs古賀)
背番号:38(62年-64年)−25(65年-80年)
60年代後半から70年代にかけての大洋の顔。
まさにミスターホエールズの名に恥じぬ名選手であり、大洋初の名球会選手(移籍選手を除く)である。
王貞治と殆ど同じ実働年数であり、そのためもあってか、タイトルと縁の無い「無冠の帝王」であったが、76年6月には4打席連続ホームランを打つなどの歴史に残る活躍を見せた。これは史上7人目の快挙である。
入団当初は捕手だった。二年目に一塁手に転向、その後、投手以外の全ポジションを経験したが、三塁手として定着する。70年代に入り再び一塁へ再コンバート。
一塁に送球された球を、「股割り」して両足を一直線に地面に付けて捕球するという「タコ足」守備で有名であった。
この捕球術を持っていたのに、ゴールデングラブは毎年巨人の王が獲得していたのが未だに納得いかない。
守備が注目されることが多いが、76年には2試合に渡って4打席連続ホームラン(2006年現在:日本記録)を達成、また、75年のオールスター戦でもホームランを打ちMVPを獲得している。
81年、トレードで巨人に放出された時は正直言ってビックリした。仮にもミスターホエールズである。長嶋茂雄や山本浩二や松井秀喜がトレードで放出されるようなもんである。
しかも相手が古賀という2戦級のピッチャーだったから、なおさら哀れである。
移籍の記者会見で、「大洋で優勝したかった」と男泣きした時には思わずこっちもウルウル来てしまったものである。
情け容赦ない球団の姿勢に腹が立ったが、その年巨人は優勝し、日本シリーズで代打ホームランを打てたという事を考えれば、松原にとっては幸運なトレードであったかもしれない。
この代打ホームランで、飛び上がって喜ぶ松原の姿は今でも眼に焼き付いている。
移籍の本当の理由は、巨人の柴田勲と共に日本プロ野球選手会を社団法人化させ、選手会長として球団と対立したためと言われている。
引退後は、巨人、大洋、広島などでコーチを歴任。野球解説者としては、あまり上手とは言えない。
人気選手だったこともあり、カードはカルビー、タカラの他、山勝などにも存在。最近のBBMでも何種類かカード化されている。
2006.5.31改定