No.60 OSAMU MIHARA



BBM98ベイスターズコレクション2
No.YB72
「魔術師」

三原 脩

監督

大洋監督通算成績:509勝546敗24分

監督経歴:西鉄(51年-59年)-大洋(60年-67年)-近鉄(68年-70年)-ヤクルト(71年-73年)
背番号:60


1934年、職業野球選手第一号として、大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)に入団。のち東京巨人軍の監督兼選手を務めるが、軍隊生活中に貫通銃創弾を受け、選手生命を絶たれ1938年に現役引退。
1947年に総監督として巨人に復帰。49年には巨人に戦後初の優勝をもたらしたが、同年、南海ホークスから別所毅彦を引き抜いた件が発端となり南海ホークスとの間に遺恨を残し、対南海戦で筒井敬三選手の頭を殴った事で出場停止100日の処分を受ける(三原ポカリ事件)
51年に西鉄ライオンズの監督に就任すると、54年に初優勝、56年から58年にかけて3連覇。日本シリーズでも巨人を3年続けて倒した。
西鉄時代には、クリーンナップを2番、3番、4番に据えるという「流線型打線」を考案。53年から5年連続でパリーグ最多得点をあげた。

60年に6年連続最下位というお荷物球団大洋ホエールズの監督に就任。日本プロ野球史上初の前年最下位からの優勝、日本一を達成し「三原魔術」と世間から呼ばれる。
しかし、翌61年は再び最下位に転落。62年は惜しくも2位、63年5位、64年2位と好不調の波が激しく「エレベーター大洋」などと呼ばれる破目に。
以後、結果を残せず67年末に大洋退団。68年から近鉄、71年からはヤクルトの監督に就任した。
1974年に日本ハムファイターズの球団社長に就任。76年から監督を務めた大沢啓二とともにチームを再建し、81年にリーグ優勝。
1984年、心不全により死去。享年72歳。

当て馬(スターティングメンバーに適当な選手を当て、相手側投手の発表を見てから実際に試合に出す選手を変えていく戦法。)や、ワンポイントリリーフの創始者として知られている。
大洋監督時代、スターティングメンバー9人中7人を当て馬とした珍記録が残っている。
通算1687勝は日本のプロ野球史上、鶴岡一人(1773勝)に次ぎ第2位。

2006.6.2改定

CARDLIST
BBM

'98YB2 YB72

現役時代、他チーム監督時代のカードは割愛。

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