内野手 右投右打
通算成績:打率.266 278本塁打 1321安打(実働16年)
最多三振:118(77年)、80年、82年、通算最多三振:1081(球団記録)
経歴:藤沢商−大洋(73年-91年)
背番号:26
ご存知「オバQ」、「鯵の開き」等々、なかなかユニークな仇名を付けられて大洋ファンというよりも他球団のファンから痛烈なヤジを飛ばされた80年代前半の主砲。
ホームランも良く打ったが三振も多かった。
77年をはじめとして3度も三振王のタイトルを獲得しているのが実に大洋の4番らしいではないか。
巨人の長嶋を気取って「4番、サード」であったが、80年代中盤から急速に衰えてしまった。
レオンの加入で4番の座を譲ると、あれよあれよという間に打順が下がり、遂には7番あたりでチンタラと打つようになってしまう。
85年には近藤サダオ監督の気まぐれでレオンとの入れ替わりで一塁へコンバートされるが86年に走者と交錯して手首を骨折。シーズンをほとんど棒に振り、オフシーズンではトレード要員。
87年には三塁へ戻るが、南海から移籍の池之上にスタメンを奪われるなど散々な結果に終わる。衰えたベテランを簡単に放出するのが大洋の伝統だが、それでも現役生活を大洋一筋で通せたのは幸福だったのか不幸だったのか。
現役最後の打席となる、91年10月11日対阪神戦、ダブルヘッダー第2試合に「4番、サード」で出場。3回、2死満塁から阪神・葛西のカーブを高々と左翼席に放りこみ、最終打席を満塁ホームランで飾ったのが印象的であった。
実は出身高校が私の昔住んでいた実家のすぐ近くだったのだ。そんなわけで大洋に入れこんだ責任の半分はこいつにあると言えよう。
引退後、ラーメン屋を開業したとかいう噂だったが、事業には失敗。その後、居酒屋経営などにも着手している。
横浜のコーチに復帰後、2007年からは湘南シーレックス監督に就任。
2009年5月、大矢監督の長期休養に伴い一軍監督代行に就任。積極的早打ちを信条とした攻撃野球で大洋らしさを取り戻す事に成功した。
カードは80年代のものが多数存在する。
85年版カルビーの裏面には似顔絵を書いたものがあったが、その中でもNo.186の似顔絵は秀逸である。
2004.5.8 追補:
「これを書いた大瀧恭子さん、このページをごらんになりましたら是非ご一報下さい。」と書いておいたところ、先日ご本人からメールを頂きました。野球選手の似顔絵を書くのが好きで、色々書いていらっしゃったとのこと。
また、カルビーには田代のほか、ドカベン香川も応募したそうです。
大瀧さん、ご連絡ありがとうごさいました。
2009.5.29改定